水無瀬山 西楽寺は、高野山真言宗のお寺です

総本山は高野山金剛峯寺、御本尊は薬師如来をお祀りしております

釈迦二十五部衆

寺伝

天平年中(729~748)行基菩薩による開創と寺伝に記されています。
のち、坪生氏の祖先菩提寺として、弘安4年(1281)、支族陶山氏により再建されたました(福山志科)。
現在の本堂は、昭和の初め手城町庵ノ下の益本屋(土屋家)住宅を移築したもので、

江戸末期の庄屋建築を示す貴重な建物です。

御本尊薬師如来座像の他、阿弥陀如来立像、観音菩薩像、虚空蔵菩薩像、不動明王、愛染明王像などを祀っています。
また、室町時代の作といわれる「弘法大師像」「釈迦二十二部衆像」「両部曼荼羅」
計4幅の仏画は市重文に指定されています。
昭和2年の「坪生郷土史」には、弘安4年、陶山勘兵氏が建立しました。

宋の高僧が来て、初代の住職となり、
『今日で23代目』と記されていますので、現住職は26世となります。
明け六つ、暮れ六つに打ち鳴らされる今の鐘は昭和24年製で、第二次大戦に供出された
〝先代の鐘〝について同書は、『明治12年2月黒坂にて鋳る。120貫目、円周大人2人位』
と記されています。

西楽寺一印会

真言宗について

紀元前5世紀頃、釈尊によってインドで興った仏教は、アショカ王の庇護により国家宗教となり、その後数世紀にわたり繁栄し続け、ヒンズー教の影響を受けつつ、大乗仏教の最終形、最高到達点の密教に至ります。

密教の儀礼は、陀羅尼や真言、印契を駆使して此の身このままで成仏することを目指し、
付随して顕われる除災招福などの現世利益の信仰が生れました。

その神秘性ゆえに「秘密仏教=密教」あるいは「金剛乗」「真言乗」などと呼ばれ、
インドから中国、日本までを席巻します。

7世紀ごろに密教史に燦然と輝く『大日経』、少し遅れて『金剛頂経』が編纂され、密教が体系化されます。

その後のインドの密教は、ヒンズー教的要素がいっそう顕著になり、主にチベットに伝わり、ダライ・ラマを頂点として現在でも信仰されています。

インドから中国に伝わった『大日経』『金剛頂経』を中心とする密教は、
金剛智、不空、善無畏らによって花開き、恵果によって完成に至ります。

恵果の晩年、遣唐使船で入国した空海(弘法大師)が恵果に師事して、密教を日本に伝えました。

同年代に活躍した最澄も若干の密教を中国から持ち帰り、天台教学の中に取り入れました。

天台密教(台密)と呼ばれます。

対して完全な密教を持ち帰った空海は、嵯峨天皇の絶大な信頼を得て、京都の東寺を中心に活躍したので台密に対して東密と呼ばれたのが、現在の真言宗です。

弘法大師像

弘法大師空海について

幼名・真魚(まお)、後の弘法大師空海は、

宝亀5年(774)6月15日に、現在の香川県善通寺市で御誕生になり、承和2年(835)3月21日に、
和歌山県の高野山で御入定なされました。

その61年の人生は天に輝く北斗七星の如く燦然と輝き、宗教に留まらず、芸術、教育、土木建築など
多岐に渡り、その後の日本の文化にも多大な影響を与えました。

特筆すべきは、遣唐使として唐にわたり、インドから伝わった密教第七祖の恵果闍梨より多数の弟子の中、
唯一人、金剛界、胎蔵界の両部の潅頂と阿闍梨位の潅頂を授かり、事実上の密教第八祖となって帰国し、
日本に密教を弘めたことでありましょう。

弘法大師の御宝号は『南無大師遍照金剛』です。弘法大師を拝むときは、この御宝号をお唱えいたします。

高野山真言宗 水無瀬山 西楽寺

高野山真言宗 水無瀬山 西楽寺

所在地

広島県福山市坪生町1354-1

電話番号

084-947-8123

受付時間

9:00~17:00

代表者

内藤 了瑞

アクセス情報

高野山真言宗 水無瀬山 西楽寺は、山陽本線大門駅より西方向に国道2号線を進みます。

伊勢丘入り口交差点を右折して県道76号線に入ります。

伊勢丘交差点を右折して、山陽自動車道側道を右折します。

坪生保育園先の橋を右折すると前方に見えます。