広島青年へんろ隊、お四国を行く その弐

2017/12/28

~台風被災の霊場を歩く~
四国の遍路道を短期間、例えば二日間だけ体験的に歩くとしたら、どの区間が良いのであろうか。我々が迷わず選んだのは、84番屋島寺から88番大窪寺に至る道であった。

屋島寺、八栗寺と連続する小高い山と、クライマックスに大窪寺の背後にそびえる女体山(標高788メートル)を越して、結願の感激に浴せられるこの区間こそ、四国八十八ヶ所の縮図のような気がするからである。

すでにお馴染み(?)の我々広島青年へんろ隊は、かくして晩秋の屋島に現われた。

二度目にして、もう結願。何という安易さ、妥協であろうか。真っ当なお遍路さんが聞いたら、呆(あき)れること間違いなし。しかし、我々は一向に気にしていない。それどころか図々(ずうずう)しくも「なんて頭が良いんだろう」、くらいに思っているのである。

衣体(えたい)は前回同様、曼浄衣(まんじょうえ)、網代傘(あじろがさ)、金剛杖、手甲、脚半。いわゆるお大師さまの旅姿スタイルに統一。他の部分は妥協だらけでも、このスタイルだけは絶対に譲らない、完全見た目勝負のビジュアル系へんろ隊なのである。この姿で隊列を組み、颯爽(さっそう)と歩いて、札所でビシッと拝んだら、相当カッコイイはずだ。その辺を相当意識して、サァ出発!

屋島の逆(さか)さ落し
屋島小学校から、2キロメートルの坂道を、標高280メートルまで一気に登る。舗装道だが、出だしにしてはなかなかキツイ。登りはそれぞれペースが違うので、隊列は組めない。若手隊員達はシャキシャキ登って、すぐに見えなくなった。「オイオイ、いきなり隊長を置いていくんかい!」。それでも1時間掛かる予定が、半時間程で登りきった。

遅れて到着した最重量のH井隊員は、途中から心停止の危険を感じながらも、命からがら上がって来たらしい。・・・早くも前途多難の様相である。

屋島寺はお遍路さんだけでなく、観光客が多い寺である。その中でもかなり目立っている我々11名の唱える理趣経が、広い境内一杯に気持ち良く響き渡る。

駐車場脇の食堂で、うどんの昼食を済ませた後、壇ノ浦に向かって、真っ逆(さか)さまに転げ落ちるかのような急坂の古道を、一段一段飛び降りるようにして一気に下る。

 人によっては登りより下りが辛(つら)い。ダイレクトに膝に重量が掛かり、いわゆる膝が笑う状態となり、遂には痛めてしまうからだ。古参のK尾隊員が辛そうにしている。膝が痛いのかと思いきや、「腹の中で、イイダコにうどんが絡(から)まって、苦しい・・・」って、「こっそりイイダコ食ってんじゃねぇ!」

 しかしこの下りは、へんろ道全体から観ても、五本に入るほどの急坂である。

下りきると、そこは源平の古戦場。隊列を立て直し、五つの剣(つるぎ)が立ち並ぶ形の五剣山の中腹に、目指す八栗寺の屋根が見え隠れするのを正面に望みながら、集落の間を縫うように粛々(しゅくしゅく)と進む。

 山の麓(ふもと)のケーブルカー乗場横から登坂し、14時、85番八栗寺到着。半分以上が山道のアップダウンであったにも関わらず、時速5キロメートルほどの歩行であった。春の第一回目初日と比べると、その差は歴然である。

道中、我々に遭遇した方々は、「へぇー、この姿で1番から歩いてきたのかぁ・・・」と、さぞかし感心したことであろう。・・・が、ところがどっこい「本当は、今日が初日なんです! 残念!」

進化
確かに我々広島青年へんろ隊は、前回よりは明らかに進化している。

今回の遍路に出る二ヶ月前、高野山から浅井證善先生をお招きして、『四国遍路の全て』と題して、ご講義頂いた。そして徒歩遍路の心構えや故事逸話、衣体や善根(ぜんこん)宿の所在地まで、こと細かな解説に聞き入ると同時に、先生のお四国に寄せる真摯(しんし)な想いに、感応、同調せずにはおかなかった。

四国遍路は、決して札所巡りのみを目的としたものではなく、「道」そのものに意味があり、決してブラブラ歩く所ではない。歩く立ち振る舞いにも気を遣うべきであると、一同が胸に刻んだのである。

そう言えば前稿で、「今回も地下足袋(ぢかたび)で来たならば、隊長の座を譲らねば」、と書いたが、果たして唯一、Y田隊員が地下足袋で参加してきた。しかも、前回履いてきたペラペラの地下足袋から、靴底にエアー・クッションが入った物に進化しているではないか。得意満面のY田隊員を、やや冷ややかな目で見つめながら、「コイツにだけは、隊長の座は譲れない!」と、堅く思った。でも、ちょっと欲しい・・・。

 本日の最終目的地、86番志度寺までは、これまで常に最後尾で隊員を見守っていた隊長の私が、満を持して先頭で引っ張る(カッコイイ!)。

時々後ろを振り向くと、しっかり一列縦隊で付いて来ている。時速5.5キロメートル程であろうか。国道からそれた、旧道の古い町並みを楽しみつつ、16時、志度寺に到着。ビシッと参拝して、町内の宿に入る。果たして常の如く、ウワァー!と大騒ぎとなる(賢明な皆さんはマネをしないでください)。

翌朝8時出立。87番長尾寺までの7キロメートルは、昨夜のツケで、少々重たい頭をスッキリさせるには、程よい距離であった。

台風の傷跡
秋深い長尾寺は、菊花展の真っ最中。人の頭ほどもある見事な菊が立ち並ぶ。「ほー、こりゃぁまた見事な紫と黄色の・・・」と思いきや、なんと初老の女性お遍路さんの頭髪であった。・・・我々のビジュアル的完全敗北であった。

長尾寺から5キロメートル地点の前山ダムに、50分ほどで到着。途中、先日の台風の傷跡を目(ま)の当たりにする。

濁流が土手を崩して、我が家を、田畑を、鶏舎をあっという間に飲み込むのを、ただ眺めているとこしか出来なかった人々の恐怖と絶望感を想い、自然の凄(すさ)まじさを改めて思い知らされる。

昼にはまだ早いが、遍路資料館で弁当を広げさせてもらう。とても親切にして頂き、お茶のお接待を頂いたり、S梅兄隊員に至っては鍼(はり)治療まで施してもらっていた。

 ここから先の車道は、本日復旧したばかりだという。念のため88番大窪寺へ電話で問い合わせると、「危険なので、山越えのへんろ道は通らないで下さい。」と言われる。電話をしている最中に、逆打ちで山を越えて歩いてきた初老のお遍路さんがやって来た。それに勇気付けられるように、「若い我々が避けて通る訳にはいかない!」と、全員が山越えに同意する。

襲撃
 幹線道路から、ダム湖に注ぎ込む川沿いの道に分かれ、いよいよ女体山越えのへんろ道に入る。

 数百メートルほど進むと、小川を隔(へだ)てた向こう側の畑で、2匹の大型犬が、けたたましく吠(ほえ)えている。シェパードと、犬の種類は分からないが、もう一匹は猟犬のようである。

「オイオイ、繋(つな)いでないぞ。危ないなぁ」などと談笑していると、少し先に、幅2、30センチの橋が掛かっているではないか。「S梅~!その橋を蹴落(けお)とせ!」最後尾から絶叫するが、犬の方が早い。敵意剥(む)き出し喰(く)いついちゃうゾ状態で、踊るように渡って来た。壁を作るように数名が、金剛杖を犬に向けて身構える。その状態のまま、数十メートルほどついて来たが、形勢不利と判断したのか、猛犬は元の畑へと戻って行った。

気を取り直し、隊列を整えて前進。山の中へ入って行く。しばらく行くと小さなお宮が見えてきた。

「殺気!」瞬間的に振り返った時には、さっきの二匹が牙をむき出して、十数メートルの所まで突進してきていた!本能が「逃げろ!」と命令した。咄嗟(とっさ)にお宮の灯蘢(とうろう)に飛び乗ろうとしたが、「低い!」と判断、隊列の中に飛び込む。私の突如の行動に、やっと他の隊員も犬の再襲撃に気付いた。大半が私につられて逃げ出すが、一人K尾隊員が金剛杖を突き出し、仁王立ちで構える。その牽制(けんせい)に、二匹は急ブレーキ!しかしなおも諦(あきら)めずに、そのまま猛烈に吠え立てながら、いつまでも追跡してくる。

道が二手に分かれた所で、二匹の猛犬はもう一方の道にそれた。少しずつ鳴き声が離れていくと、「所詮(しょせん)は犬だな・・・」と、皆一様にホッとする。

が、またも鳴き声がだんだんと近づいてくるではないか。「道が合流する・・・」と、気付いた時の絶望感は言葉では言い表せない。

犬の方が上手(うわて)だった。さすがはシェパード(褒めてる場合ではない!)。しかもヤツ等のほうが高い所にいて、今にも飛び掛からんばかりに荒れ狂っているではないか。隊長の私は、それまで守っていた最後尾をあっさり放棄して、すでにゴメンヨ状態に入っている。

そして、とうとう道は合流した。背丈くらいの高さを這(は)いずり上がらないと先にはいけない。・・・が、そこには来たら噛(か)んじゃうヨ状態のヤツ等が待ち構えている。前進も後退もできない。万事休す!と思いきや、S梅兄隊員がサッと衣を翻(ひるがえ)し、軽やかに登って、二匹を引き付けた。真の男とはまさに彼の事である!(鍼治療の効果か?)

隙(すき)を見て、残りの全員が道に上がった。犬を牽制しつつ、先へ進む。2,30分もついて来たであろうか、その内、スゥッと二匹の猛犬は姿を消した。

思うに、あの犬たちは台風の時に、置き去りにされて、それでも主人の帰りを、腹を減らして待ち続けていたのであろう。もしその気があったなら、とっくに襲い掛かってきていたはずだ。まだ野犬に成り切っていない、理性が残っていたというべきであろう。こんな所にも、台風の傷跡は残っていたのだ。

後談になるが、私は自坊に帰ると直(す)ぐに、さぬき市役所に電話をして、二匹の犬の保護をお願いした。

さて、隊長の威信を失墜(しっつい)した私ではあったが、それでも「フムフム、適材適所。これでヨイヨイ」と、全くメゲない隊長なのであった。

 いよいよ噂に聞こえた女体山越え。険(けわ)しさでは、へんろ道でもナンバー・ワンであろうこの道も、台風でやられて、もう道と呼べる状態ではない。ガケ崩れの岩肌を、文字通り這うように岩肌にしがみついての登坂となった。

だから止(や)められない
 無心で山を登る。軽やかに田舎の一本道を歩く。雨に濡れてズタぼろになって、トボトボ歩く。排気ガスに辟易(へきえき)し、大型トラックに身を竦(すく)めてトンネルを通過する。思いがけなくお接待を受け、涙する。

遍路を通して、私達は自らの弱さと強さを発見する。いや、無残なほどに顕(あら)わになると言った方が正しい。言い訳も、責任を転嫁(てんか)する相手もいない。全てが自らに起因すると覚る。だから、遍路は止められない。

 結願寺88番札所大窪寺を打ち終わった隊員達は、「次はどこを、歩きましょうか?」と、皆キラキラした眼をしていた。

(高野山真言宗広島青年教師会 会長 内藤快應 記す)

【参加者】  江坂宗祥(寶幢寺) 後藤密童(薬師寺) 内藤快應(西楽寺)
       猪 智喜(薬師寺) 金尾英俊(東福院) 平井典貢(護国寺)
       濱田公道(大師寺) 菅梅弘順(正覚院) 油田正光(真光院)
       松山法明(西福寺) 菅梅章順(正覚院)

『高野山教報』2005年4月15日号に掲載