私は『理趣経』を唱えている。
中程あたりにさしかかった時、ついに声が途切れてしまった。堰(せき)をきったように涙が頬を伝った。止めどなくあふれる涙をそのままにして、経を続けた。境内には幾人かの参詣者がいたが、私の涙には誰も気付いていない。唯おひとり、本尊さまを除いては。ここは、四国88ヶ所霊場12番札所焼山寺。ご本尊さまは虚空蔵菩薩である。
慧海上人のように
私が四国遍路に思いが至ったのは、2、3年ほど前だったろうか。信仰上の理由や、先祖供養、願かけ、などといった意味での目的は特になかった。
テーマは「歩く」ことであった。それもブラブラではなく、せっせと歩くのである。その思いを強くしたのは、昨年秋、インド・ネパールを旅したことにあった。
ネパールは世界最貧国といわれるまでに経済的に貧しい国であるが、同時にその背景には世界最高のヒマラヤ山系を有しており、観光資源でいえば世界に類を見ない。エベレスト、カイラスに代表される聖山は、仏教徒、ヒンドゥー教徒たちにとっては、神仏のおわす共通の聖地でもある。
明治から昭和にかけての学僧、河口慧海上人は、このヒマラヤ山脈を単身徒歩で越え、当時鎖国下にあったチベットに密かに入り、チベットの仏教と風土を世界に紹介した。著書『チベット旅行記』とその続編に詳しいが、その中でも、ヒマラヤの絶景は、この世のものとは思えぬ、と記す。
私がネパールを訪れたとき、山歩き風体の外国人を何人も見かけた。彼らは山頂を極める山岳登山家ではなく、トレッキングといって歩くことを目的とした人達である。
ヒマラヤといえば、尊敬する植村直巳さんのような、冒険者にのみ許された聖域だと思っていたが、このトレッキングであれば、少しトレーニングを積めば私にも出来そうな気がした。近い将来、慧海上人の歩いたヒマラヤを私も歩いてみようと、この時思った。実際、この手のツアーが多く企画され、人気を博している。
帰国してからというもの、寺の休みの日には、つとめて「歩く」訓練をした。とはいっても、妻と3人の子を持つ身である。折角の休日をそのことだけに費やすことは許されない。家族サービスを怠れば、アメリカでなら慰謝料を取られて即離婚である。だから朝方の1、2時間、土手や近くの小高い丘を歩き回るのが関の山である。とても訓練とはいえない。忘れかけていた四国遍路がよみがえってきたのは、そんなことがきっかけであった。
大儀名文
四国遍路であれば、坊さんとしてはこれ以上の大義名分はない。感心されても、よもやけなされることはあるまい。自坊を離れて、よそさまのお寺で勤めさせていただいている身ではあるが、5日から7日単位の区切り打ちならば、お寺にもそう迷惑がかからないだろうし、家族も許してくれるだろう。しかも、「歩く」トレーニングとしては最適だ。
果たして、こんな動機でお四国さまを歩いていいのだろうか。信仰心のかけらもないではないか。それこそ坊さんとしてあるまじきことではないか。
とは、私は思わない。それは後から付いてくると思っているし、信じてもいる。それがお四国さまだと思う。
確かに私不信心である。何がありがたくて、そして、どこに居られる仏さまに心をよせたらいいのか分からないまま、それでも毎日御本尊さまに手を合わせている。もちろん経典や弘法大師の著作などから、理論の上では分かっているつもりである。しかし、それが実体験として感じられるかは別である。
だから、私たち真言行者は修法を通じて体現しようとするのであるが、並大抵のことではない。並でない弘法大師は、室戸岬で驚覚された。
では、並以下の私はどうすればよいのか。私は行者であろうとする以前に、前行の一つとして四国遍路を考えた。
装備重視
さて、お四国を歩くに際して最も気を使ったのは、衣体(服装)である。全体のスタイルは、黒衣、白作務衣、輪袈裟、手甲、脚絆(きゃはん)、網代傘(あじろがさ)、錫杖(しゃくじょう)、スニーカー、黒のリュックサック、頭陀袋(ずだぶくろ)を身に着ける。
黒衣は、丈が短く、袖がたぐれるもの。白作務衣は、袖が筒状でゴムの入っていないもの。暑さ対策のためである。
これらで新調したものは一つもない。ほとんどが父か譲り受けたもので、白作務衣は、以前、家内がこしらえてくれたものである。
足元には特に気を使った。遍路道とはいえ、8割以上がアスファルトの舗装道路である。足腰にかかる衝撃は想像以上である。昔風にワラジという訳にはいかない。幸い最近では、靴底にエアを仕込んで、衝撃を和らげる靴がある。私は趣味でこの手のスニーカーをさまざま20足近く持っている。
迷いに迷って、今回選択したのは、ナイキ製「エア・ジョーダン12」紺・白カラーの靴である。この靴はバスケット・シューズなので足首までしっかりホールドしてあり、捻挫をおこしにくいが、靴底が平らなコート用に作られていて、山道や岩場などのハードな路面には適さない。
しかし、普段から最も履き慣れているのと、全体のスタイルに比較的マッチしている点を重視して、この靴を選んだ。
雨対策には、着脱を容易にするためにポンチョ式カッパを用いた。また網代傘を包み込むようにゴムひもを縫い込んだビニールを家内に作ってもらった。
実際、5日間の間、3日も雨に降られたので、大変重宝した。
前述した靴には、防水スプレーを何重にも施したが、1日ももたなかった。雨に降られたら、濡れて当たり前と達観することである。なまじ濡れまいとするからややこしいのである。
激痛
さて、今回最も悩まされたのは、かつて経験したことの無い膝の痛みに襲われたことであった。最初の2日間は、ほとんどが舗装道路だった。始めということもあってか、快調にとばした。今考えると、これがいけなかった。始めだからこそもっと慎重に歩くべきだった。靴擦ればかりに気を取られて、膝のことなど考えもしなかった。
2日目の旅館に着いた途端、右膝に痛みを覚えた。
翌朝は、11番藤井寺から12番焼山寺までの、へんろころがしの山道である。
それでも登り坂はなんとか歩けたものの、急な下り坂には耐えられず、右膝はついに爆発した。あまりの激痛に体重をかけるどころか、曲げることもままならず、脛(すね)から下は棒切れのようにぶら下がっているだけである。
2日間、歩くリズムに合わせて、ずっと御宝号(南無大師遍照金剛)を念誦していたのだが、気が付いたら、「がんばれ、がんばれ」と声を出していた。
感涙
この時の肉体的苦痛は大変なものだったが、同時に、道端に群生する名も知らぬ花々にひとときの安らぎを覚え、鳥のさえずりや、谷底の川の音に耳を傾け、自身もまた大自然の一員であることを再認識する精神的な余裕すらあったように思う。
四国遍路は、日常からの脱却である。限界とも思える肉体的苦痛の中で、精神的バランスが保てるか。保てなくても、ありのままをさらけ出すことで、今まで出会ったことのない自分が見えてくるはずである。
そこまで自らをHighな状態に高めれれば、あるいは大自然の中で法身説法が聴けるのではないか。足を引き摺りながらも、なんとか12番焼山寺にたどり着き、ご本尊さまに身を預けたとき、ありがたくて感涙した。
亡き友に捧げる
意外なことに、私はこの時、ある友人のことを思い出していた。彼とは同郷ということもあって、私の方が2歳年上であったが、酒を酌み交わしたりして親しくしていた。
7年前の平成3年、私は高野山大学を卒業し、専修学院に入学した。修行道場としての学院は、外部との接触を絶つので、彼ともそれきりになった。
その年の秋、彼は自身の手で自らの命を絶った。
私たち彼を知る者数人は、修行(四度加行しどけぎょう)が済んだその足で、彼の位牌を祀る大学寮に行き、彼のために『理趣経』を唱えた。あとから、あとから涙が溢れた。
あの時の涙と、今、焼山寺で流す涙とは、明らかに違う種類のものである。それでも、久しく忘れかけていた彼のことを思い出したことには、何か意味があるように思えた。
22歳の若さで亡くなった彼にも、まだまだ想いがあったはずである。せめて自分のことを忘れないでほしい、という彼からのメッセージだと思えた。
「歩く」ことを主目的にした四国遍路であったが、亡き友の廻向(えこう)という目的が一つ加わった。
岡山の自宅に帰った次の日にはもう、お四国に気持ちが飛んでいた。思えば、家族やお寺を始めとする周りの方々のご理解と協力があってこそであった。私はただ、皆様の恩恵にあずかっただけである。
第2回は、秋の彼岸明けを予定している。 合掌
※歩行記録
1日目(曇り・雨) 坂東駅~1番霊山寺~6番安楽寺(泊) 歩行距離 18.5キロ
2日目(雨) 6番安楽寺~11番藤井寺手前さくら旅館(泊) 歩行距離 21.6キロ
3日目(曇り) さくら旅館~11番藤井寺~12番焼山寺(泊) 歩行距離 14.8キロ
4日目(雨・曇り) 12番焼山寺~13番大日寺(泊) 歩行距離 21.5キロ
5日目(晴) 13番大日寺~17番井戸寺~徳島駅 歩行距離 17.5キロ
総歩行距離 93.9キロ 万歩計による歩数測定 153,063歩
※経費(準備用品代は別)
電車賃(往復) 8,020円
宿泊費(4泊) 22,750円
飲食費 5,960円
合計 36,730円
『高野山教報』1998年7月15日号に掲載