光と影が交錯し、刻一刻とその勢力が入れ替わる。太古のままの静けさと妖艶な気を漂わせる森は、豊潤であると同時に、迷い込んだ者を捕らえ込み、溶かし尽くす食虫植物のような、深く湿質な牙をも備えている。
わずかに見分ける事が出来るほどのけものみちを、40名余の山伏装束の行者が這うように、ゆっくりと進む。ぬかるみとゴロゴロ岩に足をとられ、何度も転倒する。昨年の台風の影響であろうか、巨大な倒木が何十本と行く手を遮り、それでなくても危険なけものみちを、更に困難なものにする。
この辺の山は、概ね岩石で形成されているのであろう。倒れた巨木の根は驚くほど浅い。岩石の割れ目にしっかりと根を食い込ませ、岩を鷲掴みにできた木だけが生き残る。倒れた木は、虫や植物の根城となり、長い年月を経て、更に山を豊にするのであろう。
峯中門跡(ぶちゅうもんぜき)と大先達(だいせんだつ)
我々は、醍醐寺三寶院門跡大峯山奥駈(おくがけ)修行の一行である。実際に同行するのは峯中門跡といって、門跡の代理だが、その権威は絶対である。道中、二度の柴灯護摩(さいとうごま)の大祇師(だいぎし)を勤める。
そして、常に先頭で一行を導くのは、大先達である。今回の大先達は、入峯20回の大ベテラン。漆黒に日焼けし、小柄だが鋼のような筋肉に包まれている。しかも60歳だというから驚きである。彼がいるだけで一行は何の疑いもなく、安心して歩くことだけに専念できる。天狗を彷彿とさせる堂々たる立ち振る舞いは、初入峯(新客)には、なんとも頼もしい。
女人禁制の山
平成11年8月19日、前日からの雨の余韻を残す中、三寶院から特急列車とバスを乗り継いで大峯山麓の洞川(どろかわ)の龍泉寺に入った。
重い雲が垂れ込め、これから分け入らんとする峰々を覆い隠す。柴灯護摩を奉修し、道中安全無魔成満を祈念する。勇壮なる法螺の音が山に吸い込まれ、午後1時半、大峯山上に向けて踏み出した。
「漸愧懺悔、六根清浄」と、頭人と掛け合いで声を出しながら、徐々に高度を上げていく。思いがけず歩き易い、整備された登山道である。少しばかり体力に自信があれば、女性や子供でも登ることは充分に可能である。
しかし、実はこの山こそ、日本に唯一残された女性を拒み続ける聖域、女人禁制の山なのである。正式には、山上ヶ岳という。
奥駈修行はこの山を出発点とし、熊野までを踏破するのが本来であるが、現在はその半分、即ち80キロメートルほど歩いて、太古の辻から前鬼に下る3泊4日、約100キロメートルの道のりに縮まっている。前鬼からはバスで熊野三山を巡拝する。
一方、太古の辻から熊野までを踏破する行を南奥駈というが、醍醐寺当山派では、現在は行なわれていないらしい。
時折の休憩の合図は、すべて法螺によって知らされる。この音を聞くと、疲れた体に力が蘇る。声明のようにユリを付けながら、低音から高音へ吹き上げる。聞くに堪えうる音を出すには、かなりの修練が必要だと思われる。
真っサラな私
山頂間近という辺りで、右足の腿が攣ってきた。まだまだ始まったばかりというのに、なんということだ。周りに悟られないように、やせ我慢をして腿を持ち上げる。
第一番目の行場、「鐘掛岩(かねかけいわ)」に着く。見上げるような垂直の岩場の下に新客だけが集められる。大先達が先に上がり、足を掛けるくぼみや手の位置を教えてくれる。言われる通りにしないと、決して先へは進めない。足を滑らせれば間違いなく死が待ち受けている。
「鐘掛岩」をクリアするとすぐに、噂に聞こえた「西の覗き」がある。垂直100メートルほどの岩壁の上から、逆さ吊りにされる行である。これもまた新客だけが行なう。
一人目の様子を見て、さほどでもないな、と二番手に志願した。太い縄を肩にタスキ掛けにし、先達二人が足を抱えてくれ、腹まで崖に身を乗り出し、合掌する。
しかしそれでも体は止まらず、ズルズル落ちていく。かつて経験したことのない恐怖に全身が硬直する。
「親孝行するか?」「勉強するか?」の先達の問いかけに、絶叫に近い声で返答する。後から思えば、何やら謝ってもいたよう
鐘掛岩」にしろ、「西の覗き」にしろ、ひとつ間違えば死に至る行である。捨身修行(しゃしんしゅぎょう)だとか、生まれ変わりの行だとか言う人もいる。私にはその辺のことは良く分からないが、とにかくそこには、底知れぬ恐怖と、それに打ち勝とうとする意識が在るだけである。死ぬに違いないという恐怖にあえて臨み、それを超えていく強靭な精神と肉体を、自らに発見する試みだと、私には感じられた。
そして、無意識の内に懺悔していたように、罪やj穢れもまた谷底へ落ちていき、真っサラな自分がそこに出現する。このことは、奥駈全体を通じて感じられたことでもあった。
出発から約3時間、今夜の宿である大峯山上龍泉寺参籠所に着いた。
雨中の行軍
翌朝、2時半起床。リュックから荷物を全部取り出して、もう一度きれいに詰め直す。中身は、懐中電灯、ポンチョ、作務衣、替えの下着3組、非常食、常備薬、水2リットルなど。
出し入れを容易にするためと、雨に降られても中が濡れないように種類別ビニール袋に入れ、道中必要と思われる物を上の方へ配置する。ポンチョ、懐中電灯、水、弁当などである。
3時、朝食をすばやく済ませて、山伏装束を着ける。これが慣れない内は手間取る。周りの人よりも早め早めに行動を起こすのだが、気付くといつも最後になっている。
地下足袋が雨に濡れて縮んで、ホックがはまらない。両足履き揃えるのに15分もかかる。勤行も最後の方になって、やっと最後尾に間に合った。
4時出発。懐中電灯で足元を照らすが覚束ない。
すぐに雨になった。隊列を組んでいるので、立ち止まってポンチョを取り出すことも出来ない。
いったん下り、そしてひたすら登る。次に目指す峰は40キロメートル先の弥山。山頂の小屋が今夜の宿である。
9時、本日二度目の朝食。宿で頂いた弁当を半分だけ食べることを許される。ご飯がギュウギュウに詰め込まれた上に、昆布の佃煮が一面に敷き詰められ、梅干が一個埋め込まれている。全く食欲がないが、雨の雫と一緒に無理やり半分かき込んだ。
入峯(にゅうぶ)のきっかけ
思えば幾つかの縁が重なり、私はこの奥駈修行に参加することになった。奥駈に先立つこと三ヶ月前、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)の生涯を書いた『役小角(えんのおずぬ)』(黒須紀一郎著 作品社)本をたまたま本屋で見つけ、続けて続編と外伝を読んで、役小角に非常に興味を持ったことがきっかけであった。そして偶然にも、この本を読んだ直後、知り合ったばかりの東京の友人に熱心にこの行に誘われ、奥駈に参加する決心をしたのである。
彼は智山派の青年僧で、大峯山に三度続けて入峯しており、山に来てから知ったのだが、法螺の名手でもあった。彼は、誘った手前もあったのだろうが、新客の私に終始付き添い、励ましてくれた。
二日目に、水を切らし途方に暮れていた私に、500ccのペットボトルのお茶を一本分けてくれた。どうぞもらって下さい、という柔らかく、にこやかな笑顔に、私は心から救われた思いがした。
六根清浄
数日間、12時間以上も険しい山道を上り下りしていると、普通なら疲れのあまり
体力が落ち、感覚も鈍って、危険な状況に対応する判断力も低下すると思われがちである。
しかし実際には、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根は逆に鋭くなり、本能的に危険を回避する能力も向上する。
自然、即ち色・声・香・味・触・法の六竟に立ち向かい、征服しようとするベクトルであったのが、知らぬ内に、正反対に、自然に溶け込む方向のベクトルに変わっていくのである。「漸愧懺悔(ざんぎざんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」とは誠に良く言ったものである。
胸突き八丁
尾根道を縦走し、決められた要所で勤行をあげながら、午後2時半、理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)尊師像のある、「聖宝の宿跡」に到着した。さあ、いよいよ「弥山の胸突き八丁」と呼ばれる、奥駈最大登りの難所である。
ここからは隊列を組まずに、各自のペースで登る。大先達に道を譲られ、友人の後ろについて、先頭グループで登り始める。もうこの辺りは女人禁制ではないようだ。途中、女性を含めて、幾人かの登山者に出会う。
ドシャ降りの雨の中、ポンチョを着ての登坂は「六根清浄」の声も出ないほど辛い。途中でついて行けなくなり、立ち止まる。実際は1時間も登っていないのだが、もう、何時間もこの坂と格闘しているような気がする。
ようやく弥山小屋の屋根が見えてきた。山頂の弁財天に参拝して、小屋に入った。出発から12時間の行軍であった。
八経岳(はっきょうがだけ)
三日目も前日同様、2時半起床。汗臭く、濡れた装束を着けるのは、なんとも気持ちが悪い。龍泉寺では真っ白だったタビと山袴(やまばかま)も、田植えでもしてきたのかと思えるほどに、真っ黒である。
「この水は飲めません」と、注意書きがしてある蛇口から、水筒と空になったペットボトルに水を汲んで、粉のポカリスエットを溶かす。少々、腹が痛くなったとしても、喉の渇きの苦しみには代えられない。さらに、缶のお茶を4本買い(山では、一本500円)、完璧を期す。リュックがズッシリと重い。
霧が立ち込める中、出発して半時間、近畿の最高峰、八経岳(1,919メートル)に立つ。法螺の音が、峰々を撫でるようにして、どこまでも広がる。
日の出を待たず、また歩き始める。
もののけの楽園
この辺りから、次第に山の景色が変わり始める。冒頭の描写のような、絵画か写真でしか見たことのない、幻想的な森の中を我々は進む。
土地の山師によると、鹿、熊、兎、そして狼もいるらしい。私が直接話を聞いた方は、10年ほど前に、狼を目撃したそうである。
民俗学者の五来重さんも、著書『山の宗教』のなかで、同じように言及している。ここは、獣たちの楽園なのである。
我々一行は、「漸愧懺悔、六根清浄」と常に大きな声を出しながら進むので、獣たちとバッタリ出くわすことはない。熊よけの鈴と同じ原理である。
釈迦岳
眼前に釈迦岳が見えてきた。奥駈最後の山である。鎖をつたって下ったり、上ったり。奥駈でも、この辺りが最も険しい所であろう。
木の根や岩を掴んで、這うように登る。もう何も考えていない。一歩一歩を積み重ねるだけである。
頂上に着いても、最後の一人が上がってくるまで、全員合掌して「漸愧懺悔、六根清浄」の声で励ます。仲間が同志に変わる一瞬である。頂上の釈迦像が、本当に有り難く思えた。達成感で体が打ち震える。
ここで昼食をとる。やはり昨日同様に、弁当の残り半分を食べる。さあ、後は下るだけである。
前鬼(ぜんき)の下り
釈迦岳を下り、「深仙宿」で御法楽を捧げる。ここは、天台宗本山派修験道の潅頂(かんじょう)が行なわれる聖地でもある。少し下ると、「太古の辻」に出る。ここからさらに大日岳の鎖行場を越えて、熊野に抜ける道が、南奥駆であるが、当山派では、現在行なわれていない。我々は、前鬼に下る。
この下りは凄まじい。標高差1,500メートルを、歩くのではなく、飛び降りるようにしながら、一気に下るのである。途中の清流で、友人ら4人ほどと、土砂加持用の土砂を採取する。以前からここに目をつけていたらしい。
何度も転倒しながら、約2時間で今夜の宿である、前鬼小中坊に到着した。
鬼の末裔(まつえい)
前鬼は妻の後鬼(ごき)とともに役行者の従者と言われる。その前鬼の名を取った地名に、私はひどく興味がそそられた。
前述の本『役小角』には、他にも役行者の師匠の五鬼童(ごきどう)と、役行者の跡継ぎと目された、五鬼助(ごきじょ)なども登場する。
小中坊の御子息に尋ねると、彼の姓は五鬼助、「鬼の末裔です」と胸を張って教えてくれた。私は驚くと同時に、わが意を得たりとばかりに嬉しくなった。
勇壮なる山伏行道
四日目、前鬼小中坊から、アスファルト道を14キロメートル歩き、前鬼口からバスに乗る。これで徒歩の行は全て済んだ。安堵感と共に深い眠りに落ちた。
熊野三山、即ち、速玉(はやたま)大社、那智大社、熊野本宮をバスで巡る。その都度、駐車場から社までを、10数人の法螺の吹き方を先頭にして、10数本の幡(はた)を掲げて、二列縦隊で行道するのである。その勇壮勇壮なること、自分がその中にいて、幡を持っていることが信じられない。真っ黒に汚れた山伏装束がまた、修行の激しさを物語り、参詣者の目を釘付けにする。
真言宗の庭儀曼荼羅供(ていぎまんだらく)などの法会には何度となく出仕したことがあるが、勇壮さでは、これに比べるべくもない。厳しい山中修行の御褒美に思えた。
歩き禅
私は現在、年2回、四国八十八箇所を、一週間づつ歩いて巡っている。私は、四国遍路にしろ奥駆にしろ、これらの行を「歩き禅」だと思っている。座禅で空(くう)になるのは難しいが、歩き禅だと案外容易なのである。そして、その道のりが困難であればあるほど、辛くて楽しい。
若き日の弘法大師がそうであったように、私もまた山に伏し、海に洗われたいと願う。
来年は、神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ、役行者に同じ)の1,300年祭である。許されるならばもう一度、大峯山を歩いてみたい。