紀行文・釈尊の聖地霊鷲山を清める

2017/12/28

正月気分も醒めやらぬ、どころかまだまだ年始挨拶のお客さんがぞくぞくやって来られる1月3日の午後、両親にお客さんを任せ、バタバタと寺を出発し、関西国際空港に向かった。
 その日は、空港付近のホテルに泊まり、翌4日にインドに向け空の人に。総勢は、高野山専修学院講師浅井證善先生を代表にした僧侶たちの他に、一般人信者さん4人を含む、12人プラス添乗員さんの13人のご同行。
 飛行機は、一端バンコクに降り、空港で5時間半の待機。機内食を食べて数時間しか経っていないが、空港内の食堂でタイカレー、トムヤムクンを食べる。折角のタイなのだから、食べねばなるまい。旨いが、汗がドッと出てきた。
 再度搭乗して、現地時間22時、コルカタ(カルカッタ)に到着。このまま夜行特急列車でガヤに向かう当初の予定であったが、飛行機の遅れが年末に分かったため、列車に間に合わず急遽コルカタで泊まる。
 突然のことで、2つ星のホテルしか部屋が空いてなく、当然のようにシャワーは水しか出ない。インドでは、たとえ5つ星でも熱いシャワーは望まないほうが無難ではあるのだが。

1月5日、専用バスでラジキールを目指す。
正午、ビハール州の州都パトナに到着。パトナは、お釈迦さまご在世、即ち紀元前550年前後頃はパータリプトラと呼ばれ、第3回目の結集の行われた仏教ゆかりの地。
 そのままパトナを通過し、ひたすら田舎道を激走するバス。車ばかりか、牛車や三輪自転車をけたたましい警笛を鳴らしながら、前から来ているトラックを間一髪かわしつつ次々と抜かしていく。「日本人僧侶の団体バス、トラックと正面衝突し、全員死亡!」のニュースが配信される場面が頭をよぎる。
 17時、ラジキール到着。ホテルはインド法華ホテル。レンガ造りで温泉を備えている素晴らしいホテルである。食事は日本食。しかも美味しい。

1月6日、3時45分起床。
まずは朝食前に朝勤行をするため、真っ暗な中、懐中電灯の灯りをたよりに霊鷲山に登る。この道は、釈尊の説法を聞くために、当時インド最大の国の王、ビンビサーラが作った道で、その名もビンビサーラ・ロードといわれる。
 東の低空に、三日月が綺麗な弧を描いている。そしてすぐ上には暁の明星(金星)がダイヤモンドのように輝いている。
 こんな早朝にもかかわらず、もう物売りが付いてくる。参拝後の帰り道を狙っているのだろう、行きは声をかけてはこない。
 20分ほどで、山頂に到着。山頂には釈尊が庵を結んだ香室の跡があり、そこに前日からのお供え物がまだ残っている。すでに管理人が来ており、参拝しやすいようにブルーシートを敷いて、我々を見守っている。日本から各々持参した供物やお布施、灯明、線香をお供えする。
 勤行次第は、前讃・般若心経七巻・観音経偈・釈迦真言・光明真言・弘法大師御宝号、さらに、ある青年の廻向のために観音偈を追加してお唱えする。
 彼も18年前、浅井先生に連れられてこの霊鷲山に参拝している。今回、彼の母親が、彼が生前着ていた笈摺(おいずる=四国巡礼などで身につける白衣)を先生に託し、廻向をお願いしたという。
 ここ霊鷲山は、お釈迦様がかの有名な『法華経』や『観無量寿経』をはじめ、多くのお経を説かれた聖地である。浅井先生の頭(第一声)を合図にお経が始まると、瞼から止め処なく熱いものが頬をつたう。夢に描いていた彼の聖地に今まさに居ることの感激と、亡き友の成仏を想い。
 ブルーシートが敷いてあるとはいえ、石の上に正座しての30分強の勤行であったが、まったく足の痛さも感じずに、我が心に月輪を観想し、そこへ釈迦如来をお迎えする。そして、さらに釈迦如来の心月輪に我が住し・・・。入我我入の瞑想から、心月輪を宇宙大にまで次第に広げ、しばらくして縮小すること数度。常には自坊の本堂で行なっている観想であるが、この霊地で瞑想できる悦びに、身が震える。この間、お経も唱えている。
 勤行が終わる頃、旭日が登ってきた。霊鷲山山頂を少し下りると、釈尊にいつも付き添っていた阿難(アーナンダ)が瞑想をしていた洞窟がある。さらに少し下に、釈尊の数千人いた弟子の中でも、神通力第一と称えられる目蓮(モッガラーナ)の洞窟が続く。もう、嬉しさで心臓がバクバクである。思いがけず大好きなアイドルに出会ったような喜び、とでも例えられようか。
 下り道は、登りではおとなしかった土産売りが付きまとってきて、必死に数珠や絵葉書を勧める。これで生計を立てていると思えば、気の毒な気もするが、誰一人相手をする者もなく、黙々と駐車場まで下りた。
 ホテルに戻り、お粥の朝食にホッと一息つく。休む間もなく、長火箸、熊手、ゴミ袋20~30枚、軍手などを各々が持ち、バスに乗り込み、再度霊鷲山に向かう。
 麓の駐車場には、雇った現地人30人がすでに集まっている。清掃に当てられる時間は今日一日だけ。どこまでできるか分からないので、山頂から手を付けていって、次第に降りていく要領を確認する。
 実は、現地の助っ人は昨日から雇っている。我々の到着が、飛行機の遅れで一日遅れたのだが、彼らは契約通りに昨日一日清掃作業をしていたようである。
 パッと見た目は、ほとんど掃除が完了しているといって良いほど、辺りは既に綺麗になっている。まず我々は、そのことに驚いた。インド人の勤勉さにである。が、我々もただでは帰らない。実際に山に入ってみると、あるわあるわ。ペットボトル、チベットのカタやルンタの古い物、菓子の包装、コーラビン、灯明のアルミ台等など。しかもビンビサーラ道から外れると、棘のある植物が群生している。そこに、カタなどが絡み合っている。とても手が出せるシロモノではない。が、ヤルと決めた以上は、やらねばならない。先生をはじめ、皆が棘に刺されて服を破かれ、出血しつつも一つのゴミも残すもんかという気合いに、霊地が次第に清められていく。
 驚くべきは、雇ったインド人の勤勉ぶりである。彼らの中にはヒンドゥーのカーストの最下層に位置し、先祖代々千年弐千年と迫害され続けたアウト・カーストに属する人々もいる。

余談ではあるが、彼らのことを若干、考えてみよう。
 カーストには約五千の階級があり、職業は、代々決められた職以外には付くことができない。即ち、アメリカン・ドリームのような夢は持ちえるような社会ではない。そのカーストのまだ下に属する最も蔑まれている者達が、アウトカーストと言われる。彼らにもまた、八百以上の区切りがある。
 私の聞いた中でも最悪の者達は、「鼠の食べ物を盗む者」と呼ばれる人々であろうか。彼らは、畑の穀物を狙う鼠が集めたわずかな穀物を、盗んで我が食物とするのである。それ以外に食べ物を手にするすべがない。
 総じてアウトカーストは、上位カーストの人々と同じ井戸の水を自らが汲んで飲むことができない。唯、彼らが恵んでくれるのを井戸の周囲で待つのみである。
 インドのイギリスからの独立の立役者であり、平和主義者であるかのマハトマ・ガンジーは、それでもヒンドゥーのカーストから抜け出せなかった。世界中で平和主義の鏡として評価される彼ではあるが、鼠の餌を盗む彼らを放置した罪はある。と私は思っている。
 だが、ガンジーが指名した初代法務大臣アンベートガルは、まさにそのアウトカーストであった。彼は、カーストの及ばない世界。平等の社会を理想とし、仏教による救いをアウトカーストの人々に、そして自らも仏教徒として宣言した。
イスラムにより、徹底的に破壊されたインド仏教は、数世紀を経てここにニュー・ブティズムとして復活したのである。
 現在、インドにおけるニュー・ブティスト人口は急増しているという。その多くはアウトカーストの人々である。
 ちなみに、アンべートガルの後を継ぎ、インド仏教を支えているのは、岡山県出身の佐々井秀嶺上人である。彼の活躍は知る人ぞ知るとも言えるが、彼の奮闘ぶりは、かのダライ・マラを凌駕するほどであると評価する人々も多くいる。私は、10年前彼に会いに行き、親しく言葉を掛けていただいたことを光栄に感じている。

余談が過ぎたので、話しを戻そう。
 アウトカーストである彼らにはまともな仕事がない。よって、この二日間のオファーは小躍りするほどの筈である。世話人が30人を選抜するのに苦労したであろうことは察するに余りある。そんな彼らは、いやな顔をする者は一人としてなく、黙々と、険しい崖を下ってゴミを拾う。
 我々も、負けじとビンビサーラロードを外れて、牛の糞を踏みつつ道無き荒地に入る。我々日本人の勤勉さも、インド人には負けてはいない。
 昨日、彼らが拾い残した細かいゴミまでも拾い尽くす我々を見習い、彼らも、一度清掃し終わった崖に再度入り込んでいく。
 この絶妙のコンビネーションによって、 霊鷲山山頂に続く徒歩20分の約五百メートルほどのビンビサーラ・ロードとその両側30メートルは、ほぼクリーンになった。
 予定外だが、日暮れまで時間があるので、麓のお土産屋、駐車場の裏手にゴミ溜め化している一角があるという。「そこもやりましょう!」という、浅井先生の鶴の一声で、作業に掛かる。そこは30メートル四方ほどの面積があり、一面にゴミが散乱している。夢の島かと思うほどである。ハッキリ言って尻込みした。
「これは、ちょっと終わらないよねぇ」と、誰とはなく呟きが聞こえる。お土産屋などのインド人は、「何が始まるんだ?」「掃除?」「馬鹿じゃないのか!」とでも言いたげな侮蔑の笑みを浮かべて、我々の作業を眺めている。
 しかし、我々と日雇いインド人の一行は、それまでの一日の作業を通して、知らず知らずのうちに一人一人が『掃除マシーン』化していたのである。見る見るうちにゴミ袋の山が出来上がっていく。そして、ものの1時間を経ずに完了したのである。
 冷やかしの笑みを浮かべていたインド人も、途中から誰一人笑っていなかった。
「君らの土地だ。君らが護れ!」と、私は大声で言いたかった。結局、山頂から麓までに集めたゴミ袋は、大型トラック一杯になった。
 作業が終了する頃、噂を聞きつけた地元の新聞が取材に来た。「インド人は、自分の家は掃除をするが、それ以外には全く無頓着である」「遥か日本から、掃除をしにきた団体があるということを、インド人は恥じなければならない」と、新聞社の記者は語っていたそうだ。

これを機に、少しでもそういう雰囲気が広がっていけば良いことではあるが、我々は、別にインド人を啓発しにきたわけではない。それは、浅井先生の帰路のバスの車中での挨拶に端的にあらわされていた。
 「1年前、この霊鷲山に参拝した時に、そのゴミの多さに驚くと同時に、お釈迦さまに大変申し訳ない思いがしました。誰かが、なんとかしてくれないであろうか、と思いました。誰かが、ということは、つまり私がしなければならない、と感じました。」と、先生はおっしゃったのである。
 ただただ、お釈迦さまの聖地が穢されていることへの心痛と、お釈迦さまへの尊崇の念からくる思いのみである。他人にどう思われたいとか、これはボランティアである、などといった余計な思いは一切見当たらない。

 肉食妻帯せず、心身共に浄らかであり、真言密教有数の行者である一面、海と見れば、誰よりも真っ先に波間に飛び込んではしゃいでしまうような、ありのままの無邪気さに、我々はお大師様を見るような思いで慕う。
 先生のバスでのお言葉の、あまりの純粋さに、最後尾の席で一人胸を熱くした。